先従隗始・温故知新

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死の淵を見た男、吉田昌郎と福島第一原発

この日本国における、個人非依存の組織的な民主主義とは
・何でもかんでも総理一人のせいにナスリツケして、行政組織は逃げに徹したり
・大したことのある健康被害でも「証拠が無いだろう」といって棄民し、行政組織は逃げに徹したり


つまり、大勢の職と人生を担保するためには、組織に加入し、卑怯な逃げに徹すること。それが先進国日本における、民主主義体制。


すでにマスコミ露出が多く重要な”指標”である芸能人・有名人には、不自然に若すぎる発がんや心筋梗塞脳梗塞系の発症および急死が、増えてきている…ついこないだまで逆に、定年を迎えても艶々した団塊以降は長寿化してなかなか死なないなんて話題がまかり通っていたのに。
http://d.hatena.ne.jp/geasszero/20121205/1354663964
これから消化器がんが報道ベースで相次ぐなら、セシウム汚染の影響


http://d.hatena.ne.jp/geasszero/20120731/1343660438
吉田所長の脳出血緊急オペが、原発放射能の容赦のなさを物語っている

組織というのは無責任なもの。物事の責任は組織ではなく個人に帰さないとダメなんです。

安藤 宏基・日清食品ホールディングス社長・CEO(最高経営責任者


◆門田隆将『死の淵を見た男、吉田昌郎福島第一原発


吉田昌郎氏は、福島第一原発の元所長。
大震災の原発事故の際、現場責任者として最前線で指揮をとった。
その後、癌になり、闘病、そして脳内出血で倒れた。


・私は、東日本を襲った大震災と津波によって起きた福島第一原発事故で、
どうしても知りたいことがあった。
それは考えられうる最悪の事態の中で、現場がどう動き、何を感じ、どう闘ったのかという人としての「姿」である。


・断続的に取材を続けて、それは当初予感した通り、やはり想像を絶するものだった。
極限の場面では、人間は、強さと弱さを両方をさらけ出す。
日頃は目立たない人が土壇場で驚くような力を発揮したり、
逆に普段は立派なことを口にする人間が、いざという時に情けない姿を露呈したりする。


・ぎりぎりの場面では、人間とは、もともと持ったその人の「素の姿」が剥き出しになるものである。


・あの事故のとき、福島第一原発の一号機から六号機までの原子炉建屋に隣接した中央制御室には、
それぞれの当直長と運転員たちがいた。
放射線を測定する線量計が高い数値を検知し、無機質で、甲高い警告音が響く中、それでも彼らは突入を繰り返した。
電気が失われた現場では、あらゆる手段が「人力」に頼るほかなかったからである。


・生と死をかけたこの闘いに身を投じたのは、多くが地元・福島に生まれ育った人たちだったことを私は知った。


・あの福島第一原発は、太平洋戦争末期、陸軍の航空訓練基地だった「磐城陸軍飛行地」の跡地に立った発電所である。


・震災が起こった2011年3月11日、私は特攻や玉砕という悲劇の中で、
若者が次々と命を落とす姿を証言で描いたノンフィクション作品『太平洋戦争、最後の証言』の第一部「零戦・特攻編」を執筆中だった。
大量の戦争資料に囲まれていた私は、そのため、福島第一原発がどういう地に立った発電所であるか、偶然、知っていた。


・明日の見えない太平洋戦争末期、飛行技術の習得や特攻訓練の厳しい現場となった跡地に立つ原子力発電所で起こった悲劇。
絶望と暗闇の中で原子炉建屋のすぐ隣の中央制御室にとどまった男達の姿を想像した時、
私は「運命」という言葉を思い浮かべた。


・戦時中と変わらぬ、いや、ある意味では、それ以上の過酷な状況下で、
退くことを拒否した男たちの闘いはいつ果てるともなく続いた。
自らの命が危うい中、なぜ彼らは踏みとどまり、そして、暗闇に向かって何度も突入しえたのか。
彼らは、死の淵に立っていた。


・私はあの時、ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実だけを描きたいと思った。


※コメント
震災から一年以上経ち、さまざまな観点から証言や教訓が出てきている。
それらに真摯に向かい合い、これからに役立てる必要がある。
経験と歴史の両方から学ぶことが大切だ。


当事者としての、生々しい苦悩。言葉や利害だけが踊る利権の争いとは異なる。『いまそこにある危機』

http://mainichi.jp/select/news/20121207k0000e010164000c.html
衆院選:揺れる原発城下町 茨城・東海村

毎日新聞 2012年12月07日 10時42分(最終更新 12月07日 12時24分)


 20世紀半ば、国内初の「原子の火」がともった茨城県東海村東京電力福島第1原発事故が起きるまで「反原発」は限られた一部の声だった。だが今、村内の日本原子力発電(原電)東海第2原発を巡り、再稼働か廃炉か意見は割れる。衆院選を迎えた原発城下町の有権者の意識が揺れている。

 「『村』だけど日本一。世界でも『東海』と言えばわかる」

 再稼働を求める石油販売会社常務取締役、照沼毅さん(59)は小学校時代、父親や先生からそう教えられた。故手塚治虫さんのSF漫画「鉄腕アトム」の世代で、アトムのエネルギー源は原子力だった。

 東海村は日本原子力研究所(原研)を誘致し、1957年に研究用原子炉が初めて臨界を迎えた。以来、多くの研究施設や企業が集まり、誘致前約1万1600人だった人口は現在約3万8000人だ。その約3分の2は家族を含め原子力関連産業にかかわる。

 村民憲章はうたう。

 −−わたくしたちは ゆかしい歴史と原子の火に生きる 東海の村民です

 その「誇り」は福島の事故で揺らいだ。照沼さんは官邸デモの人の多さに「自分たちは少数派なのか」と思った。2月に市民団体「東海村の将来を考える会」を発足させ代表になった。衆院解散後の11月下旬、ドイツの脱原発政策に詳しい専門家を招きシンポジウムを開くなど再稼働反対の村民も交えて村の未来を語り合う。

 「村は半々に割れたが、将来を豊かにしようとの思いは一緒」

    □

 「『原子の火』をまず茨城から消そう」

 今年3月に主婦らが作った「リリウムの会」は東海第2原発廃炉を目指し村議会への請願活動などを続けている。リリウムは村の花「スカシユリ」のラテン名だ。そのメンバーで2児の母の佐藤佳代子さん(42)の自宅庭からは原子炉建屋が見える。大震災前はその存在を気にかけることもなかった。しかし震災時、推定5.4メートルの高さの津波が同原発に押し寄せ、非常用ディーゼル発電機の冷却用ポンプが浸水、発電機3台のうち1台が停止した。福島事故と同様になりかねない事態だったことをあとから知り「不信感が募った。無関心でいられなくなった」と言う。

 一方、同会メンバーで4歳の長男の母、岡本孝枝さん(43)にとって「原子の火」は「誇り」だった。約15年前、原子力研究施設の見学会で燃料棒が入ったプールを見て、透き通ったブルーの水に「きれい」と感動した。しかし今は違う。

 「自分たちの将来は自分たちで考えなければいけない」

 東海村を含む衆院茨城4区には民主、自民、共産の3人が立候補し、第三極の立候補者はいない。「自分の1票が国を左右する」。その思いで16日、投票所に向かう。