先従隗始・温故知新

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原子炉が吹っ飛んで中身が飛び出したチェルノブイリ事故での、周辺民の体験談

水蒸気爆発で炉心が真っ二つに割れたわけではないフクシマのケースとは単純比較はできないが


似たような体験談はネット上で、警戒区域内や飯舘村の現地民からいくつも寄せられていた…


私自身も一日1sv、1ヶ月30svの被曝治療をしたが、顎は腐って開けなくなり(裂けるから)、鼻血も止まらず焼いて止めた。
放射能にあたって鼻血が出る=鼻腔内が壊死しているのは、そういうレベルだ。それだけのやばい総量の死の灰を吸い込んだのだろう…


急性症状と高線量被曝は短時間で劇的な症状がでるからそりゃあもうコワイが
慢性症状や晩発症状に低線量被曝がずっと何年も休みなく続くこと…のほうも、なまじ危険が見えないだけに、やはりコワイ…



5/1というと、爆発の5日後…風で飛んできたセシウムなど幾多の放射性物質(核種)が猛威をふるっている頃だ…まだ空中も盛んに舞い飛んでおり地上や地中に定位していない。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=02-07-04-12

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120427/231507/
知らされなかった汚染、そして被曝

 ワレンチーナさんは原発事故当時の様子と、被曝した経緯など当時の様子を具体的に話した。

 ワレンチーナさんと夫は、息子と、オリガさんを含む双子の娘に恵まれた。チェルノブイリ時事故当時、双子の娘は2歳半で、一家はゴメリ市に住んでいた。

 原発事故後の1986年5月1日原発から約80キロのところにある両親の家に家族で遊びに行き、みんなでジャガイモ植えなどの畑作業を手伝った。強い風が吹く日で、作業を始めてから約3時間後、突然、夫が鼻血を出し、ワレンチーナさんも気分が悪くなった。その日、病院で働いていたワレンチーナさんの母親が勤め先から呼び出され、顔色を変えて帰ってきた。その夜にワレンチーナさん一家はゴメリ市の自宅に帰ったが、翌日、マスコミがチェルノブイリ原発事故について報じたことから、初めて原発事故を知った。

 「情報は全く不十分で、事故の大きさ、人への影響が発表されることはなかった。住民の安全基準や方針も示されず、ただ言われたことは、外にいる時間を短くすること、帽子をかぶること、外から戻ったらシャワーを浴びて衛生面に気を付けるようにということだった。学校や幼稚園では屋外活動を最小限にし、やがて測定器も売られるようになった」という。

 福島第一原発事故直後に福島県内で行われたことと同じことが、チェルノブイリ事故後のソ連でも行われたことが分かる。




病気の子どもと親を支える団体「困難の中の子どもたちへ希望を」が1992年4月に設立された。会員の多くが甲状腺がんの子どもとその親

現在の会員は病気、障害児の子どもたちなど373人。212人が17歳までの子どもで、そのうち50人は、親が子どもだったときからの会員だ。親だけでなく、子どもの世代にも影響が及んでいることが懸念されている。残る161人は18歳以上。設立以降、154人の子どもたちが神経芽細胞腫、肝臓がん、甲状腺がんなどと闘い、亡くなっていった。


遺伝か、汚染環境生活のせいか、子孫までえんえん引き継がれてしまう被曝病…