先従隗始・温故知新

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なぜ、今や日本のエリート層は使い物にならない逃げ腰妖怪集団となったか


極貧で、まっすぐな、そういう者たちがのし上がらなくなった、
下層市民がのし上がるのを、エリート層が卑怯な籠絡で妨害工作しまくった結果であろう。


鍛え上げるというのは本来、貧しさが著しくないと不可能である…丸の内オフィス街なり維新後財閥を作り上げていったのはまさに極貧出身…そしていまやその子孫たちが生ぬるい豊かな暮らしのエリートとなり丸の内にも跋扈して国家社会腐敗を重ねている。


貧乏人は、
「何でも自分でやるしかない、自分で作るしかない」
そういう多芸、万能的な人材がもう、豊かになりすぎてなんでもかんでも「サービス、人任せ」の時代には、庶民層にすらいなくなってしまったのだ。コメ?スーパーで買う。家電が故障?修理に出す…体調を崩した?病院、救急車…知恵も経験もへったくれも無い。

◆河合敦『岩崎弥太郎と三菱四代』


・三菱の創業者である岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人という低き身分に生まれた。
しかし少年時代から大志を抱き、やがて土佐藩の参政・吉田東洋後藤象二郎の抜擢を受け、
長崎の土佐商会の主任となった。



・弥太郎の死後、弟の弥之助が三菱を継いで二代目社長となるが、すでに経営はパンク状態だった。
ここにおいて弥之助は、苦労して兄が日本一にした海運業を、捨て去る苦渋の決断をした。



・弥之助は三菱社を創設する。
海運分野を切り離して残った鉱業や造船業、金融業、地所事業、倉庫業を中心に、
多角経営をはじめたのだ。
彼の偉さは、自分が興した事業を、たった7年で兄・弥太郎の長男で20代の久弥に譲渡してしまったことである。
この後は三代目社長の久弥の補佐役に徹し、三菱の発展に尽くした。
鮮やかな禅譲であった。


・大成する人間の共通点とは、いったい何なのか。
思うにそれは、どんな過酷な環境に置かれても、知恵を絞って発展的な努力ができる性質ではないだろうか。


・三菱商会が生まれた頃は、国内には同じような海運業者が多数存在した。
そうしたなかで三菱商会が生き残ることができたのは、
弥太郎が遠大な理想を持っていたことが大きいように思える。


岩崎弥太郎とその弟、弥之助の年の差は16歳である。
弥太郎は、外国人に臆することなく、これと対等に付き合い、あるいは部下として巧みに使役した。
しかしながら、英語がさっぱり理解できないことに、大きなコンプレックスを抱いていた。
それゆえ、部下に対して外国語の大切さを常日頃から説くとともに、
明治元年、1968年、大坂藩邸に外国人教師を招いて英学塾を開き、学ばせている。


・弥之助が明治5年にアメリカに留学することになったのも、弥太郎の強い意志によるものであった。
わずか1年ちょっとの間に、弥之助は完全に英語をマスターして戻ってきた。


・弥之助の仕事の中で、もっとも評価されていることの一つは、
日本初のビジネス街を建設したことである。
現在の丸の内オフィス街がそれだ。


・1893年、弥之助は社長を引退し、甥で弥太郎の長男・久弥にトップを譲った。
三菱社を創業してからわずか7年、まだ42歳であった。
あまりに若い退任といえる。

弥之助は、兄の遺言を忠実に守ったのである。
弥太郎は、死の床で弟・弥之助に懇請した。
小早川隆景になってくれ」

小早川隆景は、甥の毛利輝元を補佐し、毛利家をもり立てた人物である。


・岩崎一族の男児たちについては、弥之助は厳しいスパルタ教育を施した。
東京の本郷に寄宿舎をつくり、子供の時から親と離ればなれで生活させた。
そこには他の優秀な子供達を寄宿させ、風呂炊き・洗濯などを自分たちで行わせ、
有名な英語教師や漢学者、思想家などを招聘し、徹底的に勉学させた。
食事も粗食であった。


・のちの文部大臣三土忠造が、この寄宿舎を訪れたが、あまりの貧乏生活に度肝を抜かれたという。
子供たちを甘やかさず、厳しく鍛え上げる。
それが弥之助の教育方針であり、だからこそ、岩崎久弥、小弥太も、俊弥も、実業界に名を残す名士となった。


※コメント
岩崎家の代々の経営者は、それぞれ個性的な経営を行っている。
あるときは寡黙であったり、部下に全幅の信頼をもって権限委譲したりなど。
やはり子育ては、なるべく贅沢をさせないほうがいいかもしれない。
ビル・ゲイツも質素に教育しているそうだ。