アベノミクスの言い出しっぺは自分です、とまず定義する。
その定義に基づき、今後のルートマップを再定義してみる。
前提
・小泉政権の設計は自分である
・つまり森小泉から今までずっとベースプランは自分である=マスター
・その時その時の政権が、状況に応じてベストエフォートでこなすべきことをやるよう苦心してきた
つまり、アベノミクス的なプランは民主党政権誕生直前ぐらいにはあって、時間経過につれ現実味が増してきただけのこと。
つまり、常にベースプラン=マスターというのは、
プランナーとか、学者や各業界人の、提案すること。
そしてそれは政策担当者、政権らに手渡され実行の運びとなるが
政党や省庁は受け取る側にすぎないので
自分では改造もできないし、けっして熟知しきってるわけではない。
基本的には、プログラムコードはいじれず、ウインドウズをお使いいただくだけのユーザクラス。
アベノミクスまずいかな、と思えても
どこをどういじればいいかは、動かしてる当人たちにはそこまではわからない。
実務に忙しい人達である。
学者とか技術者とかは、忙しくないぶんを考え事に没頭できる立場だ。
境遇が違う。
そのマスター側の人間たちが、
そろそろさすがにアベノミクス的な突撃を続けるのはまずいと言い出した。
そもそも日本が、無理して近代工業化を推し進めたのは明治から。
しかし、だいぶ頭いい人たちは増えたけど
政治支配において困った事態に追い詰められると
途端に先祖返りし、農村文化にまで逆行してしまう。
村長に従わないと村八分とか
原発だろうが時代遅れの産業だろうが、同じ田畑(原発なり産業なり)をあと何百年も使おうとか…
つまりいくら理論武装しても、根っこの根性は抜けない。根っこは農民と代官のままだ。
アベノミクス手法なんてせいぜい3年がいいとことわかっていた。
しかし農村的な日本の支配や社会は、いちど受け取ったアベノミクスシステムをあと100年続けようとする…ブレーキのない機関車だ。
また手ひどく破綻する。しなくていい大やけどになろう。
マスター側でストップをかけ、手直しや国際調整やらをしていくしかない。
もはや日本だけで閉じた経済ではないから、
国際社会を動かしながら連携的に手直しするしかない。
日本だけを特別扱いは出来ない。
同時に、
安倍が憎くてもそれは封印しなくてはならず、憎くなくても厳しい動きを日本にしてもらわねばならない時もある。
アルファな、できる、頭のいい、そういう学者、技術者、プランナーらにとっては、
面白い時代に突入した。
難題が増えたが、やりがいはある。
子どもじみた、野蛮な、しょうもない、長々とそういう政治や社会ばかり見せられてきたが
やっと、そんなことはしてられない状況に陥り、
本当にすべき改修や改革やオペレーションを、自分たちが手がけられる。
それは時に、何世紀も続いた議会政治システムの、次のシステムの開発にすら及ぶかもしれない。
国によるが、議会システムではもう回らなくなっている先進国はいくつかある。
政治の専門家で他業界経験に乏しいプロが(ヘタすればお父さんもおじいちゃんも…世襲)、
ゲームや勝負に勝つことだけに集中してしまい、本末転倒、「すべきことが出来ないジレンマ」に陥っている。
全ては世界中の、次世代の作り手たち次第。