そのコストはすでに他へ回した。
家族や仲間が集まり、横並びで色々用意しないと笑われる馬鹿にされるという環境にいれば別だが
今やそうではない、既存の社会風習とパージされた人間が大勢居る。
90年代までと違い、いまでは食品開発も進化しすぎて100円でも美味だし
つまり貧民側でも、風味的な貧困を実感できない。
むしろ無理してたまに高級品を食べる意欲が湧いてこなくなった。銀座や恵比寿へ行く必要を感じなくなった。モロゾフですら珍しがられず当たり前にスルーされる時代。
うなぎも寿司も天丼もカスタードプリンも昔より安いし。月一回どころか数回でも余裕。
とにかく「ぜいたく」がそこかしこに溢れかえっている。
普段の日常生活が、すでに贅沢なのだ。
80年代は風邪で休まないとバナナもプリンも食べられなかった。そういう家庭は珍しがられなかった。
その親達にとってはお見舞い品のフルーツバスケットが最高の贅沢。
今より大量生産体制がなく需要もないので、つまらんものでもいちいち高かった
洋菓子店だけをみても、今よりお店も少なかった。町中に必ず個人洋菓子店があるような今とは違う。シャトレーゼも不二家もない。
安い豆腐もヤマザキパンも、いかにも貧民向けらしく、まずかった。
だから今は、自分が望むときだけ、適度な贅沢ができればそれで良い。
おせちにしても、三が日を過ぎるとワゴンセールコーナーに残渣廃棄物がいっぱい出る。
そういうものをほんとうのゴミにしないようヘルプに入るぐらいで結構です。