先従隗始・温故知新

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迎合しないと潰され、迎合すると破滅が前倒しになる

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世間全て=国とか世界を動かすレベルになると、
知ってて当たり前の「法則」は膨大になる…


知らないくせに、勝負ゲームとカンチガイして壇上に上がってくるバカが(社会底辺の落ちこぼれが多いので、下層社会の常識しか知らない)、こと日本に多いのが気がかりだ。
勝負だけで国王だのボスだのいわば支配者になればいいんだったら、腕相撲選手権とかスト2選手権で決めたらいい。

・「安倍の葬式はうちで出す」
安倍内閣当時の、ある朝日新聞幹部の発言だ。


・政治評論家の三宅久之氏は、筆者へ次のように語っている。

朝日新聞の論説主幹の若宮啓文と会ったときにね、
「朝日は安倍というといたずらに叩くけど、いいところはきちんと認めるような報道はできあいものなのか?」
と聞いたら、
若宮は言下に「できません」と言うんですよ。
で、「なぜだ?」と聞いたら「社是だからです」と。

安倍叩きはうちの社是だと言うんだからねえ。
社是っていわれちゃあ・・・。


安倍内閣では、理念の提唱にとどまらず、教育基本法改正、防衛庁の省昇格、
憲法改正の布石となる国民投票法の制定、天下りの規制を皮切りとする公務員制度改革など、
過去半世紀のすべての首相が敬遠してきた国家の土台部分の難しい宿題を、一挙に前進させたのである。
一内閣一仕事といわれた従来の自民党政権の常識からは想像もできない濃密さとスピードだ。



安倍内閣の先代、小泉純一郎は、永田町の変人として若い頃から知られていた。
群れない。友人を作らない。孤独に強い。
強気の風貌も、歯切れの良い発言も魅力的だが、
総理就任直前まで、総理にまで上り詰めると予想した人は殆どいなかった。


小泉政権の最大の功績は、異例の高支持率を獲得して長期政権維持に成功したことだ。
政治の安定は最大の国力だから、これはもちろん皮肉ではない。


・官邸運営の要諦は、情報と人事。
会社でも通例を無視した極端な人事をやれば、みんな不満を持って動かなくなる。
それと同じ。
官邸人事の肝は、誰を総理秘書官に据えるかだ。
ところが安倍さんは国鉄からノンキャリア官僚になった井上義行さんを据えて失敗した。
飯島勲


・戦争には軍師が必要だ。
しかし、安倍さんの周囲は、安倍同様の理念型の人材が多く、
水面下で暗躍する飯島勲型の凄腕の知恵袋はいなかった。


・総理在職中、病気で退陣した安倍さんについて、秘書の初村氏は次のように述べている。

「実はこうなる前に、秘書や近親者は、何度も本人に、退陣してくれ、と頼んでいました。
単なる腹痛や下痢の頻発ではすまない状況に近づきつつありました。
しかし、本人は自分でなければ果たせないことがある。
自分は松蔭先生を本当に心の師としてきた。
松蔭先生同様、死を賭しても国のために戦い抜く、自分が辞めるのは死ぬ時だ、の一点張りでした」




※コメント

安倍政権の反省点としては、
総理秘書官の機能不全、官僚組織のマネジメント、メディアとのコミュニケーション、
閣僚の失言と身体検査不足、参院選挙の敗北などが挙げられるだろう。
もちろん、すべて安倍さんのせいではないかもしれないが、最終的にはトップの責任となる。

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・「確かに満州では、単純なる官僚的な基準あるいは官吏道というものは外れていたね。
しかし、政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければ駄目だと思うんだ。
場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。
これが政治の本質じゃないかと思うんです」
岸信介


満州では、権力と「濾過されたカネ」を手中に収めていた岸は、
血気盛んな少壮将校を連れて夜の宴席にも繰り出し、周到な気配りを見せた。

酒豪とはいえなかった岸が、軍人たちと料亭でうまく付き合ったというのは、
頭の回転や、座持ちの良さに加えて、学生時代から身に覚えがあった寄席通いの成果なども助けになったのではあるまいか。



・キャリア組の中でも出世コースといわれる大臣官房文書課勤務の辞令を受けたのは、異例の早さといっていい。
そのときの文書課長・吉野信次が大正2年入省である。
岸はその吉野から信頼され、役人としての遊泳術など多くを吉野から学んだという。


・吉野は強面の上席として周囲から恐れられ、機嫌をとるのも難しいとされていた。
ところが岸だけは一度も雷を落とされたことがなかった。
吉野のお気に入り、というのではなく、岸の要領が上回っていたのだ。


・彼はいつでも吉野の部屋のドアを細めに開けて、室内の模様を密かに眺め、空気を察してから改めてノックをするようにしていた。
その判断が正確無比だったので、吉野のお天気模様の診断は岸に任されるようになり、やがて吉野・岸ラインと呼ばれるようになる。

状況判断に狂いがない、タイミングを計るのがうまい。
それが政治家の必須条件だとすれば、彼は天性の才を備えていた。

http://diamond.jp/articles/-/25252
項羽と劉邦
 司馬遷史記に対比的に描かれる項羽と劉邦。彼らが、中国初の統一王、秦の始皇帝を見た時の感想が面白い。『司馬遷史記』(和田武司、山谷裕之訳・徳間文庫)によると、項羽は、「彼、取って代わるべきなり」と言った。始皇帝に取って代わるぞというかなり傲慢な態度を見せたのだが、項羽は自分の力に恃(たの)むところが強かった。

 それに比べて劉邦は、始皇帝を見た時、「ああ、大丈夫かくのごとくなるべきなり」とため息まじりに言った。劉邦は、「ああ、男と生まれたからにはこうでなくてはな!」と言い、将来の自分の姿をイメージしたのだ。

 結果は、劉邦が中国を統一し、漢王朝を築くことになる。




「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(史記
司馬遷史記に登場する陳勝という人物が言った言葉だ。

 陳勝は、若い時、雇われ農夫だった。いわば非正規社員だ。仕事終わりでひと息をついていた時、「どんなに偉くなっても仲間のことは忘れないようにしなくちゃ」と呟いた。

 側で聞いていた男が、「なにを言ってやがる。雇われのくせに、偉くなったら、だと」とせせら笑った。

 それを聞いた陳勝が言った言葉が「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」で、「ツバメ、スズメのような小さな鳥におおとりやくぐいのような大きな鳥の志がわかるものか」という意味だ。

 陳勝は、その後、乱を主導し、王となった。

 彼が決起にする際に仲間に呼びかけた言葉 「王侯将相、なんぞ種あらんや」と言ったのだ。意味は「生まれなんか関係ない。俺たちだって王さまにも大将にもなれるんだ」ということだ。

「なるまで」は人それぞれ。いわば学生だ。


「なってから」のほうが大事なのだが、荒くれ者どもも、民主党も、トムソーヤのカード集めのように、『なって満足し』てそこで腰を下ろしてしまう。世間に失望され、あるいは迷惑をかける。


孫の安倍と、祖父の岸。この人物像の両極端の違いもまた、そういうことだろう。